アーノルドの生涯 決断
幾多の疑いと躊躇を味わい、高位聖職者や司教たちと多くの協議を重ねた末、アーノルドは宣教神学校を設立する計画を進めていく決断を下す。政治的事情でドイツ国内での創設は許されない。アーノルドは他の場所への変更を余儀なくされる。隣接するオランダでの交渉を重ね、マース川畔のヴェンローとレーモンドとの間にある古い酒場の購入に至る。
シュタイルの小さな村で事業を興すために購入する建物にアーノルドは17,000マルクを費やす。彼は自分が出版した雑誌でお願いした献金で建物の費用を支払う。

香港の使徒座代理区長であったライモンディ司教は、アーノルドを励ます。
「ドイツには宣教神学校が1つもありません。あなたが設立しなさい」

80歳になるレーモンドのパレディス司教は、アーノルドと話した後にこう言っている。
「考えられますか。彼は宣教神学校を設立したいけれども元手は何もないと言うんです。彼は聖人か、狂っているかのどちらかですよ」

ミュンスターの教区長であったブリンクマン司教はたいへん躊躇し、アーノルドのために推薦状を書くだけのことしかしていないが、アーノルドが1875年の春に訪問した32人ほどのドイツ司教、オーストリア司教、オランダ司教は、ドイツの宣教神学校設立を承認する。
『聖心の小さき使徒』 1874年6月号
「もしもドイツ人司祭が協力してどこか安全な所にドイツ人のための宣教神学校を設立することになったら、どうなるだろうか」

文化闘争、すなわち、当時のドイツ国内で進行していた教会への迫害(司祭追放、神学院閉鎖、修道院抑圧)の中にあってさえ、アーノルドは自らの宣教の理想を追求する機会を見据えている。
アーノルド・ヤンセン(TOP)※本ページは、神言会創立150周年記念資料をもとに再構成・編集したものです。
