2020 南山学園概要

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- 南山学園 の 教育理 念
「 すべて 真 実 なこと 、 すべて気 高 いこと 、 すべて 正しいこと 、 すべて 清 いこと 、 すべて愛 すべきこ と、 すべて名誉 なことを 、 また 、 徳や 称 賛に値 す ることがあれ ば 、 それを心に留めなさい 。 」 ( フィ リピの 信 徒 へ の 手 紙 4 章 8 節 ) 。 ここで 求 められ ている謙 虚 で 、 かつ 、 開かれた姿 勢を培うことは キリスト教 世 界 観に 基づく教 育の重 要 課 題の 一 つで す 。 それ は 、 日本 の文化 、 およびそこに培わ れた諸 価 値に対 する畏 敬 を育 む 一方 、 国際的な 視 野 に 立って 物 事 を 考え 、 行 動 する姿 勢 を培う ことを意 味しています 。
な知的理 解の前 提であり、 あくまでも自由で 創造 的な思索の基盤をつくるために行われています。
地域社会への貢献
創立以 来 、 南山 学 園は 深く地 域 社 会に根ざし ています 。 1 9 3 2 年に南山中学 校が 設 立されたの は、 カトリック教会の新しい管 轄単位として10 年 前にで きた名古屋教区の初代教区長ヨゼフ・ライ ネルス師 が地 域の 発 展のため 確かな 学 力と豊か な人 間 力を兼ね備えた人 材の育成が 教会に課さ れた使 命 だ 、 と確 信していたからで す 。 そのよう な使 命 感の中から立ちあがった南山中学 校 で 推 進された 「 家 庭との連 携と個 性尊 重の 教 育 」 は、 地 元 で 早くも 好 評 を 博 したので 、 開校4 年 後の 1 9 3 6 年 には 、 地 域の強い 要 請に応えて 、 南山 小 学 校が開設されました 。 太平洋 戦 争の半 年 前 、 小 学 校 は名 古 屋 市に 移 管されることになりました が、 地 域の 新たな要 請に応えて 、 2 0 0 8 年 に南 山 大学附属小学 校 、 という校名で復活しました 。 終 戦 間もない1 9 4 6 年 、 外国語専門学 校が設 立されたのは 、 海 外 との貿易を中 心 に戦 後 の 発 展 を図るべき中 部 地 域 に 、 国 際 舞 台で 活 躍 で き る人 材 輩 出の 使 命 が 南 山 学 園にある 、 とライネ ルス師の後を継いだアロイジオ・パッヘ師と仲間 が 強く感じていたからです 。 こうした 志は自然 に 南 山 大 学 の 創 立 につ な が りました 。 初代学長 パッヘ 師 はモノづくりの土 地 柄 に 鑑 みて 理 系 学 部 の 開 設 をも 構 想していましたが 、 文 系学部の 充 実のため 、 その構 想の実 現は 2 0 0 0 年まで待た なければなりませんでした 。
知的理解と厳しい知的訓練
南山 大 学を頂 点とする学 校 教 育では、 技術的 習熟よりも知的 理 解を基 本とし、 更に、 その能 力 を養うため厳しい知 的 訓 練を行います。 キリスト 教の 伝 統 的 な 考えによれば、知 的 理 解 は信 仰と 矛盾せず、 むしろ信 仰を強めるのです。 南山学 園 の教育における知的理 解の重 視は、 この伝統に沿 うもので す。過 去 における多くの 過ちが、独 善と 偏見の結果であったことを考えると、 澄 明な知 性 の涵養が如何に重要であるかは明らかでしょう。 学 校 教 育における 教 科や 授 業 科 目の 多くは 、 それ自体が知識であるより、 むしろ経 験や 知識に 対して 将 来 の 知 的 理 解 を可 能にする力を 養うこ とが目的 で す。厳 密 で正 確 な 思 考 や 明 晰で 偏ら ぬ 判 断をする能 力は 、厳しい 知 的 訓 練を経て 初 めて身につきます。 例えば、 創造 的な数学的思考 は長い厳 格な数 学の訓 練の 後に初めて 可 能にな るものです。 南山学園の厳しい知的 訓練は、 明晰
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