2020 南山学園概要

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- 南山学園の歩み
南山の誕生前史
1906- 1931
学園創立者ライネルス神父の高い理想の下に
南山学園の設立母体はカトリック神言修道会 (以下 「神言 会」 という。 ) である。 神言会 (Societas Verbi Divini:ラテン語、 略称S.V.D. 英語ではSociety of Divine Word) は1875年、 ドイツ人の アー ノルド・ヤンセン神父により、 オランダの町シュタイルに創 立されたカトリック修道会で、 キリストの福音を語り継ぎなが ら、 まだ福音の伝えられていない地域で宣教の使命を果たす ことをその目的としている。 神言会の日本での宣教は、 学校教育を目的として始められ た。 明治時代の末、 日本のカトリック教会の指導者の一人で あった函館教区長ベルリオーズ司教は、 ローマ教皇庁布教聖 省の意向に従い 、 19 0 6 年 、 新しい修 道会を日本に招くため ヨーロッパ諸国を歴訪した。 その際、 神言会の創立者ヤンセ ン神父と会見し、 日本で教育事業に着手するよう勧誘したの である。 これに応え、 神言会は翌1907年、 チェスカ神父ら3名 の会員を派遣し秋田・山形・新潟の3県で宣教と教育活動を 開始した。 1908年、 創立者を同じくする聖霊奉侍布教修道女 会 (以下 「聖霊会」 という。 ) からも5名の修道女が秋田に派遣 され、 神言会の活動を援助するとともに、 みずからも教育慈 善事業に尽力した。 当時 の日本はヨーロッパ文化 の導入に熱心で、 カ トリッ ク教育に対する評価は高 かった。 このような状況の もとで1909年、 南山学園 の創立者である神言会員 ヨゼフ ・ ライ ネルス神父が 来日し 、 東 北・北陸の地 で教育事業に取り組み始
ヨゼフ・ライネルス師
抱いていた。 ライネルス神父は、 学校設立のための活動に積 極的にのりだし、 1927年に日本を襲った金融恐慌や、 第二次 世界大戦へつながっていく世界情勢の激変などの苦難を乗り 越え、 南山中学校創立の基盤を築き上げていったのである。
南山中学校 (旧制) の 誕生と発展
1932 - 1945
試練の時代を越えて
1932年、 財団法人南山中学校 (設立者・理事長ライネルス 神父) の設立が認められ、 南山中学校 (旧制) が設置された。 この学校では、 初代校長ライネルス神父の信念に基づき個性 を尊重した適性指導を行うため、 小人数の学級編成による自 学自習主義が教育方針として掲げられていた。 ライネルス神 父は慈父のように温厚な人柄で生徒に大きな影響を与えた。 第1回の入学者数は61名であった。 学習に適した美しい健 康地として八事丘陵が校地に選ばれた。 当時としては通学に 不便であり、 願書受付に着手した時期が遅かったことなどか ら 「20名も集まれば大成功」 と言われていたが、 こうした世 評をよそに、 61名の入学者をえて順調なスタートとなった。 学校のあたりの山林地が南山 (みなみやま) と呼ばれてい たので、 創立者は校名を 「なんざん」 とした。 「 南山中学」 の校 名で、 「 みなみやま」 より 「なんざん」 の方が音のつながりが良 かったためらしい。 また、 「 なんざん」 は、 李白の春日行や詩経 に散見する 「南山」 「 南山寿」 などにも通じ、 持久、 堅固を意味 し、 長寿を慶祝する辞義がある。 創立期の人々が、 この名称に 学校の永久の繁栄の意をこめていたことはいうまでもない。 木立に囲まれた丘の上に立つ明るい鉄筋コンクリート3階 建の校舎は近代的な魅力にあふれ、 人々の関心を惹いた。 だ が一方、 運動場には時折野兎が飛び出して体育の授業が中断 されるなど、 すべてがのんびりと静かで、 私塾の趣きのある家 庭的な雰囲気の学校であった。 その後、 テニスコートや体操 用具、 運動器具など学校設備が年々整備され、 1934年には体 育館兼講堂の至誠堂も竣工した。 1936年には県下初の私立小学校として南山小学校が 設 立された。 この小学校は、 1941年に国民学校令実施を前にし て名古屋市に移管され、 八事国民学校 (のちの八事小学校) となる。 日本が戦時色を強め、 国の内外事情が緊迫の度を加えるに つれ、 南山中学校はカトリック系私学として厳しい試練に遭 遇し、 細心の注意を払って軍国主義的な時代の情勢に対処 し、 難局を乗り切らなければならなかった。
めたのである。
1926年、 ライネルス神父は名古屋教区長に就任したが、 こ のことにより、 日本における神言会の教育事業は新しい出発 をしたのであった。 ローマ教皇庁布教聖省は、 新教区長の就 任にあたって最も希望する事柄として教育事業への従事を要 請し、 ライネルス神父は名古屋に男女中等学校を創設する決 意を固めるが、 その理想とするところは、 円満な人格を育て、 人格形成としての教養を身につけるための学校であった 。 そのような教育を可能にするために、 ライネルス神父は当時、 すでに小学校から旧制高等学校までの一貫した学園構想を
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