2021 南山学園概要

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- 学長の時代は、 さまざまな試練に直面しながらも大学の学部 ・ 学 科の整備、 大学院の設置、 山里キャンパス(現キャンパス)への移 転など、 大学の研究 ・ 教育面で著し く拡充が行われた時期であっ た。 まず、 学部 ・ 学科については、 1960年に社会科学部社会学科 を母体とし て経済学部 (経済学科) が設置され、 1963年には、 広 く柔軟な語学力養成と、 その語学力を基礎にした経済 ・ 言語 ・ 外 国文化の教育 ・ 研究を目的とし て外国語学部 (英米科、 イスパニ ヤ科) が設置された。 文学部は、 1960年に人類学科を加え、 1962 年には中国文学科を廃し、 神学科を加えた。
導入にまで至る状況となった。 だが、 このような困難な事態の なかで、 南山大学教職員は事態収拾のため一致協力し、 かえっ てコミュニティ とし ての結束を固めることができた。 また南山大 学は、 紛争の処理にあたって一貫して毅然とした態度で臨み、 それが結果的に社会の信用を高めることとなったのである。
南山短期大学の 誕生と発展
1968- 1984
他の追随を許さぬ独自の人間教育の理念のもとに
1968年、 南山短期大学 (英語科) が設立され、 南山学園は また新たな一歩を踏み出した。 初代短期大学長はフーベルト ・ フラッテン神父であった。 フラッテン神父は、 1948年以降、 神言 会日本管区長、 学園理事長、 長崎南山中学・高等学校初代校 長、 南山中学 ・ 高等学校長を歴任し ていた。 ライ ネルス神父が種 をまき、 パッヘ神父が育ててきた学園の発展を見つめてきたフ ラッテン神父は、 地域社会からの強い要請に応えて設立した 短大をユニークな教育計画で育て上げていく。 その教育方針は、 既存の短大の模 倣ではなく、 新しい理念に基づき、 社 会の要望に添いながら、 南山独自の 教育を行うことであった。 こ うした方 針によって、 南山短大に設置する学科 は、 英文科ではなく英語科となった。 英会話に力を入れ、 L L方式に頼らず 出来る限り外国人教員が直接指導に
フラッテン師
一方、 1958年、 南山大学最初の大学院として社会科学研究 科 (のちに文学研究科) 文化人類学専攻修士課程が生まれた。 これ以後、 1960年代半ばまでに、 文学研究科文化人類学専攻 と英文学専攻、 経済学研究科経済学専攻の3専攻の修士課 程、 博士課程設置が行われたのであった。 1964年、 大学は五軒家町から山里町のキャ ンパスに移転した。 新キャンパスは名古屋の市街を一望する緑濃い丘の上にあり、 斬新な建物群が機能的に配置された、 近代的キャンパスであ り、 知的探究と人間教育の場にふさわしい美しい環境を形成し ていた。 1968年には経営学部 (経営学科) が設置されるが、 これは、 実業界からも期待される東海地方最初の経営学部であった。 1969年には大学院文学研究科仏文学専攻修士課程が設置さ れている。 このようにし て、 南山大学は、 1949年の開学時には1学部4学 科で発足したが、 20年後の1960年代後半には、 4学部11学科2 研究科4専攻を擁する大学に発展したのである。 その一方で、 全国的に吹き荒れた学園紛争の嵐は、 1969年 から1971年にかけて南山大学にも及び、 止むを得ず機動隊の
あたる時間を増やすこととした。 この
ようにして、 真の国際人たる女性を育てる場として、 女子部の キャ ンパスの一画に南山短期大学はスター トしたのである。 1971年、 短大は昭和区隼人町の新校舎に移転した。 1973年 には短大とし ては日本最初の人間関係科を増設する。 これは主 としてアメリカではじめられた行動科学的方法論を基礎とし、 哲学・心理学・社会学・教育学を柱にすえ、 それらを体験学習 を中心にオールラウンドに履修することで人間関係そのものを 学ぶ学科である。
山里町に移転した当時の大学新キャンパス (1964)
南山短期大学キャンパス (1971)
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