2022_Hominis_Dignitati
9/40

すべての学びが単なる知識の蓄積に終わるものでないように、キリスト教の学びも学ぶ当人の生き方に影響を与えます。他の動物たちに比して脆弱な存在である人間はお互いに「助け合う」ことによって生き延び、進化し、成長してきた、と言われますが、この助け合いを「愛」というキリスト教のキーワードにつなげることも可能です。それは身体的、物質的なものでもあり精神的なものでもありますが、大切なことは、キリスト教における愛が、単なる感情ではなく一つの責任ある行動であり、生き方である、ということです。本当に重要なことを識別するのは「愛」である、とキリスト教は考えています。愛を「わかる」とは愛する人間に「かわる」こと、共に生きていく人間に「かわる」ことではないでしょうか。[1879年(明治12年)に神言修道会初の宣教師として中国に派遣]キリスト教の精神は生き方にどう関わってくるのか人間は「異質なもの」との出会いによって成長していきます。慣れ親しんだものから離れることは勇気のいることですが、それは新たな出会いのはじまりともなり、人間としての成長に欠かせないプロセスです。世界に存在するさまざまな国の文化はそれぞれに豊かさを秘めていますが、尊敬の念をもって異文化に接し、異文化から学ぶことによってそれぞれの国も成熟していきます。人間だけでなく他の動植物が「ともに暮らす家」である地球の上に生かされているという事実に目が開かれるとき、そして、すべての人が「他者」について責任を持っているという自覚に目覚めるとき、真の「国際人」が誕生するのではないでしょうか。人間の尊厳を基礎に据えるキリスト教の精神は、多様な人々が共に生きる、あるべき国際社会の形成に貢献できるものとなるでしょう。国際社会でキリスト教の精神がなぜ必要なのかキリスト教世界観によれば、人間は、他の動植物を含む自然界の中で、それぞれのありかたを尊重し、配慮する「責任ある存在」として位置づけられています。それが人間は「神にかたどって創造された」という聖書の宣言の一つの意味です。一人の人間はかけがえのない存在として無条件の肯定のもとにあり、人間同士だけでなく自然を含む無数の「つながり」の中で生かされている、という喜ばしいメッセージをキリスト教はわたしたちに差し出しています。皆さんが、このようなキリスト教の根本的な考え方に触れ、学び、お互いに責任ある幸せな人間として成長していく機会を南山学園は提供したいと考えています。なぜキリスト教を学ぶのか「すべての国の人が理解できる言語、それは“愛”です」神言修道会会員 ヨゼフ・フライナーデメッツ– 07 –その1その3その2

元のページ  ../index.html#9

このブックを見る