2022_Hominis_Dignitati
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 1947年のある日、上智大学クルトゥール・ハイムにあった中央事務局から四ッ谷駅に向う帰り道で、突然、“the Dignity of man"“Hominis Dignitas"という言葉が私の脳裡にひらめき、これこそ、今の社会に最も大切なことであるという考えが、私の心に強くうったえるものとして迫ってきたのであります。結局、人間とは何であろうか、人間は生物学的に進化した唯一の動物である。あるいは、人間というものは自然を破壊し、征服するものである。人間はただ法律の対象になるものである。あるいは、「人間は万物の尺度 “metros"である。」さらに、人間は神のimage(似像)である。というように、人間を様々に考えることによって、将来の社会は異なって来るものであります。私は、「人間の尊厳」をめぐって考え、しばらくの間、道端に立ちつくしていたのであります。この時いらい、私は終始人々とこの考えについて話し続けたのであります。そして、南山大学の大講堂(現南山学園講堂)が完成し、大学の新しいモットーを定めるときに “Hominis Dignitati"を提案したのであります。 この“Hominis Dignitati"すなわち、「人間の尊厳」という言葉は、私の人生体験から生まれでたものであります。私は三つの戦争を体験し、ドイツの革命や、インフレーション、全体主義の暴力的な事件も経験し、そこに繰返されたさまざまの災い-今日までもつづいている不幸な情況をも体験して来ました。また、第二次世界大戦を東京で体験し、そこでもまた、随分多くの不幸な出来事を見ました。道徳的な頽廃、精神的な真空状態をみて、また、東京の廃墟をみつめながら、果して人間の価値はどこにあるのかを考えると、心は傷むばかりでした。私はそれらのことを正視することはできませんでした。人間はなぜこのような混乱や災いのために生れてきたのだろうかと疑わざるを得ませんでした。そして、一人一人が他の人々を深く尊敬し、国家間において相互の国民の尊厳を重んじ、互いに理解することは、人間にはなぜできないのだろうかという疑問が、私に「人間の尊厳」の重大性を悟らせたのであります。 「人間の尊厳」における人間の概念はキリスト教の信仰とキリスト教の世界観から生れでた概念であります。人間は神の象(かたどり)として造られたものであります。人間はすべて等しく天に在す父なる神の子であり、この人間は永遠に神と一致して存在するために召し出されている人間であります。このような人間の概念や人間の尊厳をもっている人間であれば、様々の国家間の相違は縮められるものであります。 (1972年)アルベルト・ボルト第7代南山学園理事長HOMINIS DIGNITATIについてAlbert BoldMESSAGE. 2– 23 –

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