常設展示

アジア・太平洋戦争と南山中学校

戦争と南山中学校

1931年の満州事変(柳条湖事件)の翌年に開学した南山中学校は、戦争とともにあった。

初代校長ライネルスは、慎重かつ鷹揚に学校の運営にあたったが、1937年には、一部の生徒が授業を放棄する事件が起こった。この中で、南山中学校からの宗教性の排除という言動がみられたのは、戦中期の学校の状況を示していた。

教練 1940年

勤労動員・空襲・地震

対英米戦争が始まると、戦時色はさらに強化された。南山中学校生徒たちは、名古屋市港区の住友金属名古屋伸銅所、大高の三菱工場、高野精密笠寺工場などへ勤労動員に駆り出された。
南山中学校本校舎は、1944年12月、名古屋聯隊司令部庁舎として軍に「貸与」された。

1944年12月・1945年1月、東海地域を2度の大地震が襲った。被害状況はほとんど知らされなかったが、多くの犠牲者を出していた。
航空機生産の中心地であった名古屋への空襲は、熾烈であった。1945年6月9日の名古屋への空襲では、動員先の南山中学校生徒4名が犠牲となった。

教練 1942年

敗戦と学校の再開

ポツダム宣言の受諾から1週間ほど経つと、生徒たちが勤労動員先から学校に帰ってきた。貧しい設備で、授業が再開された。しかし、ライネルスは、8月28日、息を引き取った。ライネルスの教育事業は、アロイス・パッヘに引き継がれた。

迷彩色の校舎