南山アーカイブズ 刊行物 南山学園史料集

『南山学園史料集7 イルサ・フォン ライスナー作品集』

2012.02.20

編集: 南山大学史料室、発行: 南山学園 2012年2月20日


目次

1 イルサ・フォン ライスナー作品集

 Auferstehung復活のキリスト像/Auf gebrochenem Lebenssteuer海の星/祈るキリスト「成し遂げられた」/悲しみの聖母/死と希望/死と復活/苦悩と十字架の光/Albert Bold 南山学園第7代理事長肖像画/Albert Bold肖像画デッサン/希望/Pieta悲しみの聖母/慈悲/南山大学第3代学長Johannes Hirschmeierブロンズレリーフ/神言修道会創立者St. Arnold Janssenブロンズポートレート/神言修道会の最初の中国派遣司祭St.Joseph Freinademetzブロンズポートレート/Die arme Mutter戦争寡婦/すべて命あるものの母/慈愛の聖母/母と子/Im Herzen des Taifuns kann ein Kind schlafen/Madonna of Nagasaki

2 Yrsa von Leistner略歴

3 作品解説

 Yrsa von Leistnerは1917年7月18日、ドイツのミュンへンで生れた。父親はYrsaが6歳の時、母親は12歳の時に死去し、彼女はミュンヘンで祖父母に育てられ、ミュンへン芸術高等専門学院に入学したのが16歳であった。18歳でチベット探険家William Filchnerの胸像を彫刻し、その芸術創造性が注目を浴び、優等で卒業した。

 Yrsa von Leistnerの芸術に大きな影響を与えたのは、20世紀初め、ドイツを中心に展開された表現主義(expressionismus)芸術運動で、それは作家の内面的・主観的な感情表現に重点を置くものであるが、彼女はドイツ表現主義の最後の代表者の一人と評される。

 ベルリン慈善病院に立つ《Professor Ferdinand Sauerbruch》胸像の製作は、その後の生涯に亘る彼女の創作活動の根本的立場を決定づけたものといわれる。戦争末期のベルリンの病院の地下防空壕で、止まぬ空襲警報、爆撃と爆発破壊の恐怖、死に逝く傷病者たちとSauerbruch医師の姿を目の当たりにしたライスナーの内面から発する芸術の根源的テーマは、「生と死」から「死と生」「愛と復活・再生」へと昇華し研ぎ澄まされていった。

 終戦直後の1955年に西ドイツ首相アデナウアーから招かれて首都ボンのアトリエ工房で、多くの著名作品を制作し、広く海外での活動も多い。

 ライスナーと南山学園との関わりは、Gerhard Schreiberゲルハルト・シュライバー理事長とAlbert Boldアルベルト・ボルト理事長の時代に始まり、南山学園と神言会の依頼で南山教会、南山大学、神言神学院、学生寮マリアハウス、南山短期大学、南山高等学校、長崎南山第二学園、聖霊病院、平針教会に21点の青銅彫像や絵画、ステンドグラスなどが制作された。日本での最大のYrsa von Leistnerコレクションである。

(會澤俊三「Yrsa von Leistner略歴」より)

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